ソーシャルメディアにおける「ソーシャル」について


フェイスブックインパクトを読みました。一応。
特に感想はないですが、一つだけ。
最後の高広さんの章で、ソーシャルメディアの「ソーシャル」について説明しようとしています。
社会の最小単位=「家族」なんて、サッチャーのようなことを仰っておりましたが、うまく説明しきれずに、尻つぼみで終わっているような印象を受けました。

このブログは、ウェブ分析縛りで書いていたのですが、今日はちょっとだけ脱線して(広い意味での分析っていうことで)、ソーシャルメディアにおける「ソーシャル」について考えてみたいと思います。

高広さんも書いているように、社会学の中でも「社会」の定義には相当に議論があります。というよりも、「社会」をどう定義するかによって、その人の社会学のスタンスが決まると言った方が良いのかもしれません。込み入った話に立ち入るとボロが出るので、ここまでにしておいて、僕の考える「ソーシャル」について書いてみます。

「社会(ソサイエティ)」と似た概念で、「世界(ワールド)」という概念があります。世界とは何を意味しているのでしょうか。ウィトゲンシュタインは論理哲学論考の最初のパートで、世界についてこう語っています。

1 世界とは、起きていることすべてである。
1.1 世界は事実の全体であり,ものの全体ではない。
1.11 世界は事実によって、そしてそれらが事実のすべてであることによって、規定されている。
1.12 なぜならば、事実の全体はなにが起きているかを規定し、そしてまた、なにが起きていないかをも規定するからである。
1.13 論理空間の中にある事実、それが世界である。
1.2 世界は事実へ分解される。
1.21 その他すべてを変えずに、ひとつひとつが起きることもできるし、起きないこともできる。

そして、こう締めくくります。

7. 語りえぬことについては,沈黙するしかない。

世界は事実の全てであって、世界の外側については我々は何も知ることはできない。そして、事実とは論理空間の中にあるもの。つまり、我々の思考の限界が世界の限界であるということです。
すなわち、「世界」とは、ある個人が想像しうる全ての事実として考えられます。「事実」は、物理的に存在しているかどうかは問題ではありません。たとえば、空想の世界であっても、その人が事実として受け入れているものであれば、それは世界の一部となります。逆に、実際に地球上に存在していたとしても、その人が全く知らなければ、それは世界の外側にあるものとなります。

では、社会とは何か?「世界」とは想像しうる全ての事実であることに対し、「社会」とは想像しうるコミュニケーション可能な集団として考えます。重要なのは「想像しうる」という点です。実際にコミュニケーションが取れるかどうかは問題としません。ある集団に対して、コミュニケーションが取れると判断できるならば、その人はその集団と同一の社会に属していると考えられます。古くから、「国民国家」が社会の代表格として存在してこれたのは、コミュニケーションを可能とさせる共通言語の存在、マスメディアの存在が強く影響しています。
そういう意味では、僕の考える「社会」は、ベネディクト・アンダーソンの「国民国家」論と同じで、「想像の共同体」を指します。「共同体(コミュニティ)」は恒常的にコミュニケーションを取っている集団です。その一方、「想像の共同体」である社会は、直接的、双方的なコミュニケーションは取らないとしても、自分をその社会の中の存在として置き換え可能であれば、社会の成員として考えられます。
例えば、大企業であれば、部署の違う社員同士で直接的なコミュニケーションを取ることは少ないかもしれないですが可能です。よって、企業は「社会」として考えられます。企業の中で、同じプロジェクトメンバーであれば、恒常的にコミュニケーションを取るので、「共同体」として考えられます。

ようやくフェイスブックの話に入ります。フェイスブックでは、「friends」や「Like!」で繋がった個人・企業は同一の共同体(コミュニティ)として考えられます。そういう意味では、フェイスブックにおける「ソーシャルグラフ」の「ソーシャル」は、「社会」というよりは「コミュニティ」の形容詞として捉えられます。そして、全てのソーシャルグラフの総体がフェイスブックという「社会」と考えます。
しかし、全てのフェイスブック利用者にとって、フェイスブック全体が一つの「社会」とは限りません。フェイスブックは基本的に「テキスト中心」のコミュニケーションメディアであるため、言語がわからなければ、社会として「想像」しなくなる人もいるでしょう。英語を見たくもないという人にとっては、英語利用者は社会の外側にあります。テキストだけではなく、画像や動画もあるため、話は単純ではないですが。いずれにせよ、同じ「社会」の一員かどうかは、言語の影響も大き関わります。

そして、何より重要なことに、フェイスブックでは、ソーシャルグラフが可視化されます。ソーシャルグラフを見ることによって、その人が自分と同じ「社会」の成員かどうか判断されます。つまり、フェイスブック上ではソーシャルグラフこそが本人となります。名前は本人を示す記号にすぎません。ソーシャルグラフが本人です。もちろん、これを可能にするのは実名での登録があってこそであることは間違いありませんが。

キルケゴールの「死に至る病」での冒頭の有名な一節、

人間は精神である。精神とは何であるのか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身に関わる一つの関係である。

フェイスブックでは、このキルケゴールの抽象的な議論が、目に見えるソーシャルグラフとして可視化されます。「関係」こそがフェイスブックの本質であり、ソーシャルメディアの「ソーシャル」たるゆえんです。

マーケティング的に考えると、フェイスブックをはじめとしたソーシャルメディアでは、まず「想像の共同体」である社会の一員となる必要があります。それには、当然、フェイスブックなどユーザーと同じプラットフォーム上に参加し、コミュニケーション可能な言語(=ローカルな言語)で展開する必要があり、さらに企業の存在を知ってもらう必要があります。しかし、想像の共同体のままでは、ビジネスになりません。ビジネスへと繋げるためには、ユーザーの共同体の一員になる必要があります。ファンページで「いいね!」を押してもらい、恒常的なコミュニケーションを取れる状態にし、ユーザーとコミュニケーションを取りづける状態へと進めることが求められます。企業がユーザーのコミュニティの一員となれば、ユーザーは彼自身の別のコミュニティに対し、その企業の製品を薦めてくれることでしょう。もちろん、全て好意的な方向ではないとは思いますが。要するに、企業(または製品・ブランド)自身がユーザーのソーシャルグラフの一員として、「関係」を作ることが重要となります。なぜなら、ソーシャルグラフこそがフェイスブック上での本人であり、「関係」こそがフェイスブックの本質であるからです。いかに強固な「関係」を作るのかが、ソーシャルメディアマーケティングの役割となります。

最後は、無理矢理マーケティングに結びつけてみましたが、結論としてはむちゃくちゃ平凡です。実際、実務としてSMMをする時は、こんな抽象的な議論は大して役に立たず、地味で面倒な運用をコツコツやることが成功に繋がるんですけどね。

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