意識データと行動データ 2


前回の続き
意識データと行動データ 1

それでもあえて意識データを擁護する

このように時代は明らかに行動データへと傾きつつ有り、行動データによって成果もあげつつあります。しかし、ここでは、あえて意識データを擁護したいと思います。
まずは、意識データへの不信への回答から始めたいと思います。
一つ目の疑問:「人の意識を数量化することができるのか?」
答え。できません。全てのユーザー調査は恣意的にならざるを得ないと思います。学問的な誠実さから考えると、明らかに失格です。僕は学生時代は社会学のエスノメソドロジーという分野を学んでいました。エスノメソドロジーについては、詳しく述べることはしませんが、エスノメソドロジーでは「実践の厳密な記述」を目指します。自ら調査主体の構成員となり、内側の視点から社会の構築を記述します。このことによって学問としての真摯さを保とうとします。
このように、意識を数量化することは学問的には無理があります。しかし、それが本当に役に立たないのかというと疑問です。マーケティングでは学問的な厳密さよりも、「役に立つかどうか」の方が重要です。学問的な厳密さには欠けるものの、アンケートデータは役に立つ程度のデータを出すことは可能です。そのためには、無理のない調査設計を行うことと、結果の解釈は有意性検定に基づいて行うことが必要です。これにより、ある程度の信頼性は保障されます。ビジネスにおいては「ある程度」で十分だったりします。
2つ目の疑問:「人は自分の意識を言語化することができるのか?」。答え、ほぼ無理です。質的調査では、これに対する回答として2つの方法があります。1つは他者が人の意識を解釈する。2つ目は言語化するスキルを持った人自らが調査対象となり、記述することです。1つ目の方法がエスノグラフィーであり、2つ目の方法が先ほど述べたエスノメソドロジーです。
問題は量的データです。量的調査では質的調査のような解決方法は適用できません。しかし、ここでも回答は1つ目と同じです。ある程度正しければ良いのです。役に立つ程度の信頼性はあります。

量的データと質的データ

これまで、あえて量的データと質的データの両方を扱ってきましたが、ここで一旦整理したいと思います。なぜかマーケティングの世界では意味不明な定量データ、定性データという言葉で呼ばれることが多いですが。
この2つのデータの違いは明白です。数学として取り扱えるか否かです。「テキスト」それ自体では、質的データですが、テキストマイニングを行い、数値化すると量的データへとなります。
量的データと質的データには4つの点で大きな違いがあります。

  • 抽象性
  • コンテキスト
  • 解釈の自由度
  • データの代表性

量的データは抽象性が高く、コンテキストが希薄で、解釈の幅が狭く、データの代表性が高いです。質的データは、全てその逆です。簡潔に書くと、量的データには有無を言わせない数字のチカラがあり、質的データは、いかようにも解釈できる、という具合です。
しかし、一方では量的データからは発想の飛躍がしにくいということも言えます。これはデータの性質以前にデータ収集の段階で、決められた枠内でしかデータが収集できないということからも生じます。つまり、量的データは基本的に「仮説検証型」のアプローチであり、データから「探索的に」何かを発見することは難しいと言わざるを得ません。データマイニングは探索型のアプローチとも言えますが、これは小さな仮説検証を積み重ねるという意味での探索型調査であって、本当の意味の探索型アプローチをしようとすると、いくら時間があっても足りません。データの代表性の問題は常に残りますが、新たな発見や新しい発想を生み出すための調査としては質的データに頼る他ありません。(データの代表性については、GTA:グラウンデッド・セオリー・アプローチのやり方はうまくやっていると思います。問題の解消はできていませんけど。なんかWikiPediaの説明は、かなり偏っていますが。。。)
質的データにも当然、意識データと行動データがあります。しかし、質的データにおいては両者に大きな違いはありません。なぜなら、それらの違いよりも「解釈」の違いの方が圧倒的に大きな影響力を持つからです。ユーザーテストによる「観察データ」は、行動データであり、デプスインタビューによるインタビューは意識データです。エスノグラフィーによる参与観察はインタビューを通して、意識を探り、観察を通して行動を理解します。エスノメソドロジーについては、行動なのか意識なのかは既に重要ではありません。どの種類の調査にとってもデータの種類よりも解釈のほうが遥かに重要です。

まだ続きます。

意識データと行動データ 3

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